狩人話譚

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第23話 霧隠れの里 後編

銀白色の奇士[3]

 リククワにすっかり馴染んだレタルトムだが、この年頃の子ども特有の怖いもの知らずで好奇心旺盛な性格は、油断すると再び外へ飛び出してしまいそうでユゥラは必死に少年を引き止めた。

「なんで? ぼく、ひとりでもへいきだもん」
「一昨日は偶然モンスターと遭遇しなかったし、斜面から滑り落ちても軽い怪我で済んだのよ。それにギルドナイトがすぐに君を見つけてくれた。運が良かっただけなの」
「やだ! そと、もっとみたい! そとってこんなにキラキラしてるのに、どうしていっちゃいけないの?」
「レタルトム……」

 外の世界をキラキラしていると形容したレタルトムの言葉は、少年の知る世界が村の中しか存在しないことを意味していた。世界の広さを知らずに育った不幸な境遇にユゥラは言葉を失う。
 レタルトムにとって、外の地で見た人も、ご馳走になったおいしい料理も、温かい布団も、リククワを覆う氷の壁ですら輝いて見えたのだ。知らない世界を見たエメラルドの瞳が、好奇心で満たされて始めようとしている。

「レタル、お前が外を見るにはまだ早い」
「おはよう、ワカ。エイドも」
「おはようございます」

 二人を見つけたワカとエイド、オトモアイルーたちがやって来た。ワカが不満そうに頬を膨らませるレタルトムの頭を撫でてやるが、昨日のご機嫌だった調子はどこへやら、ぷいと顔を背けられてしまった。
 ワカはその隙を突いて体を抱き上げると、両肩に足を跨らせて肩車の体勢をとる。見晴らしが良くなったので、拠点中央部に立っているクシャルダオラの氷像を見上げていた。

「……誰か来るわ。リュカたちじゃないみたい」
「氷海の依頼を誰か受けたんかな。ここを経由する必要は無いはずなんやけど」

 赤紫と青が入り交じる鎧を着込んだハンターがこちらへ向かって来ている。隣にはオトモアイルーがおり、頭装備はサークレットのため後頭部で結われた青い髪が風になびいていた。

「ニャッ! あれはリンさんですニャ」
「リンフィさん?」

 目を凝らしたモーナコがワカに伝える。我らの団ハンター、リンフィ。彼女と会ったのは旧砂漠で依頼を受けた際に救助要請を出したことがきっかけだった。オトモアイルーを連れてディアブロスを一人で討伐した腕前は【バルバレの英雄】と呼ばれるにふさわしい。
 そんな彼女が何故わざわざ辺境にある拠点を訪れたのだろうか。ワカが手を挙げると気付いたのか、ザクザクと音を立てて雪を蹴りあげながら走り出した。

「リンフィさん、どうしてここへ」
「氷海へ採取に行こうと思ってね。ついでにアンタたちの拠点にも寄ってみたかったんだ。書士隊と護衛ハンター、更に施設を営む住人もいる仮設拠点なんて珍しいからさ」

 リンフィが連れる、世間には筆頭オトモと呼ばれているシャガートとチコ村から彼女について行ったニコはモーナコと再会を喜んでいる。特にニコはモーナコがチコ村に滞在していた頃からの友人なので、互いに元気で過ごしていることが嬉しいのだろう。
 ワカの隣に立っていたエイドに気が付いたリンフィがあ、と小さく声をもらす。それはエイドも同様だった。

「アンタ、【ベルナの英雄】だよね。なんでここにいるんだい?」
「え、英雄って、そんな」
「なに謙遜してるんだ、雪山でガムートを討伐しただけでなく、龍歴院の調査隊を救ってベルナに大きく貢献したんだ。あっちじゃそう呼ばれてるそうだよ」

 リンフィの口角が上がり、頬につけられたフェイスペイントも持ち上がる。英雄と呼ばれたエイドは自分には不釣り合いだと首を横に振った。
 リンフィが着ている鎧もまたエイドと同じく近年存在が顕著になった【斬竜ディノバルド】の素材からつくられた【ディノシリーズ】だ。

「で? ワカ、その子はアンタの子ども? ……ああ! なるほど、アンタら夫婦だったんだね」
「えっ!?」
「ちがうよ。ぼく、かあさんいないもん」

 レタルトムの純粋な返答によりリンフィの勘違いは一瞬で終わったが、色素の薄いワカの頬が赤くなっているのを見て親しい関係であることは把握したようだ。
 もしかしたらと思いワカはリンフィにこの地域のことを尋ねてみたが、やはり彼女も詳しくないようで首を傾げられた。しかし外の世界を知りたくて飛び出した勇気ある、だが無謀な少年を気に入ったみたいでリンフィはとんでもない発言をした。

「坊や、アンタも一緒に氷海に行くか?」
「いいの!?」
「リ、リンフィさん! いくら採取ツアーといってもただの子どもを連れて行くなんて……! それに、気球がハンターの動向を監視している。そんなことできるわけが」
「アタシに考えがある。オトモアイルー用の装備をつくれる腕のいい鍛冶屋はいるかい?」

 どんどん話のペースを引っ張っていくリンフィにワカの反論は無意味だった。レタルトムは突如現れた女性ハンターの案が気になるらしく、そわそわしている。

「アタシに任せなって! そんなに心配ならアンタもついて来ればいい」
「そうしたいところだけど、今は氷海に行けないんだ。ギルドから処分を受けているから」
「……ふーん。じゃあ、エイドがアタシを見張って。オトモアイルーも一緒にパーティを組もうよ。ソフィアにはアタシから説明するから」
「アタシとエールが?」
「旦那さん、ボクたちは留守番ニャ?」
「そうなるね。よし、鍛冶屋に案内して」

 強引で剛胆。リンフィに相応の言葉を脳内に並べながら、ワカはエイドと共に鍛冶工房に向かうしかなかった。



 鍛冶アイルーのハリーヤに材料を手渡し、一時間も経たないうちにそれは完成した。大タルから白い毛に覆われた足だけがひょっこりと出ていて、目のある位置だけ板が外されている。タルの中は暗く、外側からはよく見えない。

「これで完璧だね! 行くよ、“ニコ”」
「うん」
「おかしいなあ? ニコはアイルーなんだけど?」
「にゃ、にゃー」
「よろしい」
「会心の出来ニャー」
「ブーツに白く染色したガウシカの毛を貼り付けてアイルーの足に見せかけるなんて、無茶苦茶だな」

 リンフィの考えとは、レタルトムを【タルネコボディ】に閉じこめることだった。背丈がアイルーに近い子どもだからできる芸当だ。完成品を見てハリーヤは満足げだが、ワカはリンフィの斬新なアイデアに呆れていた。

「気球から見るあいつらの目からすればわからないもんだよ。この防具は実在するから怪しまれることも無いし」
「レタルトム、本当に大丈夫?」
「へいき、すごくワクワクする!」
「何かあったらこいつを担いですぐに逃げるから、心配しないでいいよ。そろそろ氷海に向かう船が到着するかな、行くよ」
「エドちゃんも気を付けて」
「ボクがいるから大丈夫ニャ」

 心配するユゥラやワカをよそに、リンフィはエイドとエール、そしてニコに扮したレタルトムと共に氷海を目指した。拠点を出る前にレタルトムにホットドリンクを飲ませ、氷海を動き回れるように下準備を完了させながら。



 レタルトムは海も初めてだったようで、タルの中から忙しなく目線が動いている。それは風を切る船へ、海の水平線へ、そして徐々に近づいてきたそびえ立つ白き山々へ。落ち着かない目線を止めるべく、リンフィはタルを軽く小突いた。

「坊や、アタシの傍から絶対に離れないんだよ。言うこと聞かないならすぐに帰るからね」
「はーい」
「返事、違うよ」
「にゃー」
「本当にムチャクチャニャ」
「でも、リンフィさんはあの子に何かを考えがあって連れて来たんやと思うんよ。アタシたちは周りを警戒しとこ、エール」

 レタルトムの状況と歩幅を気遣ってゆっくり歩くリンフィにさりげない優しさを見出しながら、四人はベースキャンプを出た。
 エリア1で仲良く闊歩するポポの親子を発見し、レタルトムは緊張と興奮から息を荒くしながらじっとしている。こちらが刺激しなければ大丈夫だと伝えれば、呼吸を整えて瞬きもせずにポポを見つめていた。

「アンタが羽織っていた毛皮のマント、何度も縫って修復されているけどあのポポの毛からつくられているんだよ。毛は衣服に、肉は飯に、骨は素材に。アタシたちはあいつらからたくさんのものをもらっている」
「ころしちゃうの?」
「そうだね。だから全てを活用する。そうやってアタシたちは自然に感謝して、受け取った命を大事に使っているのさ」

 やがてポポの親子がエリア2方面へ歩いて行ったので、リンフィはエリア5へ向かう。レタルトムが小股でついて行き、エイドは釣りカエルを採取してから二人の背を追った。



「本当に旦那さんは破天荒な人ニャ」

 ぬるくしてもらったお茶をすすり、シャガートはぼやく。バルバレの英雄と呼ばれる彼女は頭が良いが豪快な性格であることをモーナコは知っていた。

「英雄、か。ポッケ村とモガ村の英雄なら俺も知ってるよ」
「ニャんと!? 旦那さんはモガ村の英雄と一緒に依頼を受注したことがあるそうニャ。あっちの英雄は落ち着いていてハンターらしかったニャ。それに比べて旦那さんは……」
「シャガート。リンフィさんは腕の立つハンター、それは事実だろう? あの性格だからあちこちの人とすぐに打ち解けて、どんなモンスターにも立ち向かう姿勢を崩さない。俺はリンフィさんのそういうところを素直に尊敬しているよ」
「ワカさんも旦那さんと付き合ってみればわかるニャ。本当にムチャクチャニャ」

 留守を命じられたリンフィのオトモアイルーたちはワカの部屋で談話をしていた。雇用主として理解はしているものの時折見せる暴走っぷりに頭を抱えているようで、久しぶりに会った同胞に思いの丈をぶちまけている。

「旦那さんはギルドナイトの家系の人らしいニャ。だけどギルドナイトになるのが嫌で家を飛び出して、ハンターになろうと船に乗ったらあの【豪山龍ダレン・モーラン】と遭遇したニャ。そこで団長と出会って、キャラバンに勧誘されて今に至るニャ。この時点で色々とぶっ飛んでるニャ」
「……由緒正しい血脈なんだな」
「ワカ旦那さん?」
「なんでもない」

 妬みを含んだような声色にモーナコが主の様子を窺うが、ワカは書物に視線を落とした。文字を読んでいるふりをして本当は物思いにふけっているのだろう。こうなると周りの声など聞き取ることはできない。モーナコは二人の積もる鬱憤を聞くことにした。



 エリア5に着き、リンフィは本来の目的である採取を開始した。ピッケルを持つと岩に挟まった鉱石を取り出すべく周りの岩を削り始める。エイドもドスヘラクレスを虫網で捕らえ、小型のカゴに詰めた。その様子をレタルトムが不思議そうに観察していたので、エールはタルの中に話しかけた。

「鉱石や虫はハンターの武器や防具の素材になるニャ。ボクらは自然からたくさんの恵みを受けて生きているニャ」
「へえー」
「隣、行くよ」

 採取を終えたリンフィが立ち上がり、隣接するエリア6へ向かう。ここにもピッケルで採掘できそうな鉱石が見えるが、一匹のスクアギルがこちらに気が付くと氷上を滑走して向かって来た。
 すぐさまエイドがレタルトムを守るように立ちはだかるが、その前に立つリンフィは武器を抜かずに膝をついた。スクアギルが飛び込んでくるのを待ち構えているようだった。そして……

「リンフィさん!」
「なにやってるニャ!」

 小型モンスターとはいえ鋭く生え揃った牙がリンフィの左手に食らいつく。スクアギルは獲物を食いちぎろうと自身を回転させて肉を切り裂こうとしたが、直後に右手で剥ぎ取りナイフを抜いたリンフィに体を貫かれ、氷の地面に串刺しにされた。
 一瞬とはいえかじられた左手の傷口から血が滴り落ちる。それを見たレタルトムはタルの中ですくみあがった。少年が見た、初めての流血。

「今の、見たろう。こういう奴らもいる。もっとデカい奴らはこんな程度じゃない。下手にぶつかれば骨が折れたり、最悪死んじまったりする。これがモンスターの脅威。自然の洗礼だ」
「……こわくないの?」
「怖いと思ったら、ハンターはできないさ。とはいえ、こいつらを狩るだけがハンターじゃないけどね。副業としてハチミツを採取して金を稼いだり、モンスターの肉を試験的に調理するハンターもいる。ハンターは一概にこういう奴、とは言えないのさ」

 回復薬を取り出し、瓶を傾けると左手にかける。残りは飲み干すと息絶えたスクアギルから剥ぎ取りを行う。そうしてから立ち上がり、レタルトムと向かい合うように再び膝をついた。

「だからね……アンタが父親から聞いたハンターは感謝していい英雄なんかじゃない。モンスターを必要以上に狩ることは、この大自然の掟を破ることだ。村の近くから脅威が去って平和になったかもしれない。でもね、どこかで自然の摂理は乱れたんだよ」
「…………。」
「今はこの言葉の意味がわからなくていい。だけど、いつかはこの意味を理解してほしい。そうしたらアンタは村を出な。今度こそ自分の足だけで外へ飛び出すんだ」
「……うん」

 エメラルドの瞳は戸惑っていたが、リンフィの言葉を懸命に心に刻もうとする必死さも感じられた。それを見たリンフィは納得し、帰ることを促したのでまっすぐベースキャンプへ戻った。
 リンフィは飛行船が待っているからと言いリククワを起ったが、レタルトムにとって忘れられない出来事となったことだろう。



 それから更に一日が経過し、カゲたちが戻ってきた。レタルトムの故郷が判明したという。

「驚いたよ。あの斜面の向こう側、一里ほど歩いた先に里があったんだ。ドンドルマギルドの管轄地域だったからバルバレギルドでも把握されていなかったみたい。大老殿に便りを出して良かった」
「カゲ、レタルがいた里というのは」
「【ウラルの村】。近くに大きな湖があって、頻繁にそこから霧が発生して村を覆い隠すようになるとか。だから【霧隠れの里】とも呼ばれているんだって。地図も受け取ったから、場所は把握している。僕らが案内するよ。彼らもギルドナイトなら信頼してくれるだろうし」
「お願いするわ。……レタルトム、元気でね」

 名残惜しそうにユゥラがレタルトムを抱きしめる。生まれてすぐに母を亡くしたレタルトムは、不思議な温もりを感じていた。
 カゲたちが出発の準備をしている間に、ワカがそっとレタルトムの耳元に告げる。氷海から帰ってきたエイドからリンフィがレタルトムに伝えたことを聞いたことを思い出しながら。

「お前が大きくなって村を出たら、ここに来るといい。だけどもし、ここが無くなっていたら……その時はバルバレギルドを目指すんだ。そしてギルドマスターにこう伝えてくれ。“ナバケのジンが身柄を保護する”と」

 そっとリククワやギルドへの道筋を記した地図をポーチに入れる。別れの挨拶として頭を軽く撫でると、レタルトムは『バイバイ』と言ってカゲたちの元へ走り去って行った。



 その後、リククワを二人のハンターが訪れた。来訪を願っていた、あの二人だった。

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第23話 霧隠れの里 前編

銀白色の奇士[3]

 リククワ近辺の森を二人のハンターが周囲を見回しながら歩いている。ギルドナイトの称号を持つG級ハンター、キョウとミツキだ。二人はカゲの指示により森の調査を行っていた。
 数日前にワカが遭遇した謎の男。非狩猟地域で野生のケルビの頭部をハンマーで叩き潰し、更にワカにも襲いかかった奇行はギルドへ即座に伝えられ、その凶暴性から被害が広がる前に捕らえなければならないとの判断が下された。
 あれから男の姿は見えない。カゲはここを離れただろうと考えていたが、何か手がかりを残した可能性もあることから探索を命じたのだった。

「特に気になるものは見当たらないね。もう少し探そうか?」
「…………。」

 ミツキの問いに対し、キョウはふいを顔をそらす。無視したのではなく、まだ探したいという意思表示だ。付き合いが数年に及ぶミツキにとって、キョウの無言の行動が何を意味するのか手に取るようにわかるのだ。
 リククワは氷海に近い大陸の最北部に位置し、しばらく南下すると現在のバルバレギルドのある中心部にたどり着く。森が広がるこの地域は気候が厳しく、人が住むには適していない。氷海の調査のための拠点としてつくられたリククワが唯一の例外だ。それがこの地域を知る者たちにとっての見解だった。
 だが、それは間違いだったと知る。

「…………。」
「キョウ、どうしたの?」

 茂みに視線を注ぐキョウが固まったまま動かない。普段より目つきが鋭いのは目を凝らしているからのようだ。やがて茂みに近づくとガサガサと雑な音を出しながら草をかきわける。

「こ、子ども!?」

 ミツキが驚愕の声をあげた。草むらに隠れるように、子どもが倒れていた。



 ユゥラの手当てを受けた子どもはベッドで身を横たえて静かに眠っている。幸いにも軽い擦り傷しか負っておらず、体がやや衰弱しているだけだ。休めばじきに目が覚めるだろう。
 子どもの柔らかい純白の髪を撫でながら、ユゥラはベッドを挟んだ向かいに立つカゲと目を合わせた。

「この子はどこから来たのかしら? ここに一年以上いるけど、近くに村があるなんて聞いたことが無いわ」
「僕らもこの拠点のことしか聞かされていないから、周辺の地理は詳しくないんだ。美月の話だと、この男児が倒れていた近くに上から滑り降りてきたような急斜面があったそうだから、どこかに居住地があるんだと思う」
「そう……。あのまま誰にも見つけてもらえなかったら凍え死んでしまうところだったわ。この子を見つけてくれた二人に感謝しないと」
「そうだね、後で伝えておくよ」

 その後、話を聞いたワカとエイドが様子を見にユゥラの部屋を訪れたが少年は一向に目を覚まさず、その日は静かに夜を迎えた。



 翌朝、カゲがキョウとミツキを連れてユゥラの部屋を訪れたが不在だったため、今の時間帯ならと食堂へ向かうと賑やかな声が聞こえてきた。
 その中に聞き慣れない声が混じっているのを確認したカゲは、あの子どもが目を覚ましたのだと安堵する。そして中へ入れば、案の定ユゥラをはじめとするリククワの者たちが食事を平らげた子ども――少年だったようだ――を囲うように立っていた。

「やあ、おはよう皆」
「おはよう、カゲ。キョウとミツキも、昨日はお疲れさま」
「ありがとう」
「…………。」

 ユゥラが労いの言葉をかけながら身を退いたので、そこへカゲが入る。椅子に腰掛けている少年を見やるが、特に警戒することも無く不思議そうにカゲを見つめ返していた。輝竜石の別名を持つドラグライト鉱石のような、鮮やかな緑色の瞳だ。

「名前、言えるかな?」
「【レタルトム】」
「歳は?」
「ごさい」
「どこから来たの?」
「むら」
「村の名前は?」
「……わかんない」

 少年こと【レタルトム】は自分の住んでいる村の名前を知らないようだ。せめて名前がわかればギルドに確認して細かな位置を知ることができるのだが。

「僕らは一度ギルドへ戻って、周辺の集落について調べてみるよ。数日間この男児を保護してほしいけど、いいかな?」
「食料はたっぷりあるから問題無いよ」
「ベッドはディーンのを使わせるわ。誰かが傍にいる方が安心できるでしょうし、客人用の部屋はエイドが使っているから。レタルトム、私と一緒の部屋でいいかしら」
「うん」

 モリザとユゥラに確認をとったカゲたちはすぐにリククワを発とうと思ったようだが、モリザが『待ちなよ』と三人を止めた。そしてキョウの前にレタルトムを連れ出す。
 自身の太股くらいの背丈しかないレタルトムを見下ろすキョウだが、少年は彼の放つ威圧感など全く感じていないようだ。

「レタルトム、この人がアンタを見つけて助けてくれたんだよ。お礼を言ってあげな」
「うん! ありがとう、“おじさん”」

 レタルトムがとびきりの笑顔でお礼を述べたが、キョウの表情に変化はまったく見られない。だが付き合いの長いカゲとミツキには、僅かながらキョウが動揺したことに気が付いた。
 殺意をみなぎらせるモンスターと対峙しても怯むことの無いG級ハンター、しかもギルドナイトでもある男が『おじさん』と呼ばれて衝撃を受けたという事実にカゲは堪えきれず吹き出した。

「ぷっ、くく……おじさんだって! 二十七でおじさん呼ばわりなんて可哀想にねえ、恭」
「…………。」
「えっ? 残念でした、僕は十六だから“おにいさん”だもんね」

 キョウがカゲを睨んだので、カゲも薄めていた目を開いて心を読みとる。想像通り抗議の思いをため込んだようで、カゲは手をひらひらと振って自分は問題無いとからかった。以前から思っていたのか、モリザも追撃を放つ。

「アンタ、仏頂面だからねぇ。老けるように見られたんじゃないかい?」
「…………。」
「さてと。ギルドまでの道のりは長いから、すぐに出発しないと。戻るまでこの子の面倒をお願いね。行くよ、美月、恭おじさ……痛いっ!」

 供を連れ発とうとしたが余計な一言を足したためにキョウに肩を強く叩かれたカゲを見てモリザが笑う。ワカとエイドは三人に道中気を付けて、と見送った。



 ユゥラは棚から数冊の本を取り出した。モンスターの生態について記載された書だ。書士隊により集められた情報がぎっしりと詰められたこの本は、大型モンスターを実際に目にする機会が滅多に無い子どもの強い関心を引く。
 ワカとエイドもレタルトムと話をしたいと訪れ、部屋は一気に賑やかになった。

「レタルトムはどんなモンスターが好き? 飛竜種? 牙獣種? それとも古龍かしら」
「もんすたー、ってなに?」
「えっ?」

 きょとんと首を傾げて尋ねたレタルトムの質問に三人は怪訝な表情を浮かべてしまった。いくら幼い故に村の外に出たことが無いとはいえ、モンスターの存在を知らないとは信じられないからだ。
 ワカは傍にあった本に手を伸ばし、ケルビやガウシカなど草食種のモンスターが載っているページを開いた。スケッチされたモンスターの絵を見ても、レタルトムは興味津々な反応を見せる。

「今回以外に村の外に出たことはあるのか?」
「ないよ。むらからでちゃダメだって、とうさんがいってた」
「その理由は」
「そとにはなんにもないって。なんにもなくて、アンゼンだからずっとここにいるのがいいんだって」
「ワカにいちゃん、どういうことなんかな」
「……村の外に脅威が、モンスターが存在しないってことだろうか」

 言葉足らずな子どものメッセージの意図を読みとるのは難しい。どうにか真意を理解しようとワカは頭をフル回転させ、そう推測したようだ。
 リククワの近辺で生息しているのはケルビなどの脅威と見なされることの無い小型モンスターのみ。厳しい気候のこの地は外界と交流を持つよりも自給自足を確立させて慎ましやかに暮らす方が安泰なのかもしれない。ユゥラはそう考えた。
 レタルトムは他のページもぺらぺらとめくっては目を輝かせている。本当にモンスターという存在を知らないようだ。この気候では他の野生動物を見かける機会も無いだろう。

「とうさんがいってた。むかしむかし、むらのちかくにこわいいきものがたくさんいたけど、”はんたー”ってひとがタイジしたんだって」
「ハンター……!?」
「はんたーは、しろくてキラキラしたたからものをまもっていて、こわいいきものをタイジしたから、むらのまわりにはなんにもなくなったって。はんたーのおかげでこわいいきものがいなくなったことをはんたーにカンシャしなくちゃいけないって、とうさんにおそわったんだ」
「……どういう意味かしら」

 饒舌に語ったレタルトムの村の話はモンスターを討伐したハンターといった内容で、まるで村に伝わるおとぎ話。レタルトムはハンターが狩人ではなく人の名前と受け取っているようだが。
 何か思い当たったのか、ワカは『レタル』と名を縮めて少年の名を呼ぶ。金の眼と翡翠の眼が交錯した。

「その“はんたー”はどこへ行ったのかは聞かされていないのか?」
「ゆきやまの、とおいとおいむこう。たからものはおそらにきえた」
「……そうか」
「ワカにいちゃん、何かわかったん?」
「そのハンターは……【密猟者】だ」
「!!」

 エイドの血の気が一気に引いた。ワカも表情を強ばらせており、ユゥラは二人の反応に驚く。何か良からぬことを知ってしまったかのように思えた。

「怖い生き物とはモンスターのことだろうな。そしてハンターがモンスターを根こそぎ討伐した結果……この一帯からモンスターが姿を消したんだ。やがて木々が生い茂るようになり、一部の小型モンスターが戻ってきた。この辺が狩猟指定区域だった話は聞いたことが無い。白く輝く宝物が何を指すのかはわからないけど、何らかの目的があってハンターはこの地域のモンスターを不当に絶滅させたんだ。その後、ギルドから追放されて雪山の向こうへ逃げ延びた」
「レタルトムの村の周りからモンスターがいなくなって、安定した環境になった代わりにモンスターの存在を知らないまま時が流れてしまったってこと?」
「恐らくは。自給自足で生活できるのなら村から離れる必要も無いし、かえってこの地域から出る方が危険だと伝えられているのかも」

 ユゥラがワカの推測の続きを述べ、ワカは頷いてそれを肯定する。レタルトムに二人が話している内容を理解することはできなかったが、『はんたー』について話していたのでワカの服の裾をつかむとすがるように見上げた。

「はんたーのこと、しってるの?」
「昔の人だから知らないさ。レタルも知る必要は無い。……知らない方がいい」
「ワカにいちゃん……」
「なあレタル、どのモンスターに興味があるんだ? 俺たちができる限り話をしてあげよう」

 話を切り上げるようにワカが他の書物にも手を出すが、古ぼけた書類の山を見つけて動きが止まる。

「ユゥラさん、これは?」
「【古文書】」よ。あの人が、ディーンが書士隊の先輩から継いで解読していたの。今は私が引き継いでいるわ」

 古文書は古代人が記した暗号のような古い書体で書かれているために、解読は書士隊が何十年、延べ何十人にもわたって続けられている。全部で十一冊あるうちの一冊がリククワにあることにワカは驚いた。
 過去に解読されたものでは強大な力を持つモンスターの出現を予言した内容が記されていたことがあり、被害が発生する前に食い止めるべく、書士隊はそれらの解読も行っているという。
 本来ディーンが死亡した時点でギルドへ返還されるはずだったが、ユゥラがそれを拒んだ。亡き夫の遺志を継ぎたいとムロソに告げ、ムロソがギルドに懇願の手紙を送ったことでユゥラは古文書の解読を行う使命を受け継いだ。
 イリスが氷海の誕生の謎を探っているように、ユゥラもこの古文書の解読を目標としていた。

「先代たちの努力の結果、寒冷地帯にまつわる伝承だと判明しているんだけど、まだ細かな内容にはたどり着いていないの」
「すごい……書士隊ってそんな難しそうなお仕事もするんやね」
「ハンターだって立派よ。強大な力を持つモンスターに立ち向かうんですもの。だから、私たちも頑張ってハンターに役立つ情報を伝えられるよう戦っているわ」
「ねえ、それなに?」
「これはお仕事の書類よ。レタルトムが見ていいのはこっち」

 卓上に乗せられていた古文書と資料に手を伸ばしかけていたレタルトムを抱き上げ、ユゥラの太股の上へおろす。レタルトムの目の前にモンスターの書を開けばわあ、と歓喜の声をあげた。
 こうして見るとまるで親子のようだ、とワカは微笑ましく思ったが、すぐさまその考えを撤回した。ユゥラがどんなに強く願っても、叶わない希望なのだから。

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ご感想お礼置き場(4.17更新)

*はじめに

作品にいただいたご感想へのお礼置き場です。大変励みになります、ありがとうございます!
心当たりのある方はドラッグ&ドロップでご覧ください。
(最終更新日:2017/4/17)

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第22話 一年越しの永別 後編

銀白色の奇士[3]

 深呼吸をして呼吸を整え、むくりと起きあがる。地面にはたくさんの涙がしみついていた。目元をこすり、酸素不足の頭を軽く振るう。

「お別れ、できましたニャ?」
「……モーナコ」

 地面を踏みしめる音がしたので顔を向けるとモーナコが立っていた。問いに対し頷いてみせると、良かったですニャとモーナコもまた頷く。

「シフレには感謝していますニャ。ワカ旦那さんのピンチを救ってくれたのはシフレだって、イアーナさんが教えてくれましたニャ」
「あの時は無我夢中だったニャ。ワカさんが前の旦那さんと重なって見えて、とにかく助けなきゃって……」
「ハンターのために危険を冒してでもセルレギオスに立ち向かったのはすごいですニャ。シフレは立派なオトモイルーですニャ」

 心から称えてくれているモーナコの純粋な眼差しに、シフレは遠慮がちに首を横に振る。立派なオトモアイルーならば主を守れたはずなのに、それができなかったのだから。

「ワタシは前の旦那さんを助けられなかったニャ。もしモーナコだったら回復笛で傷を癒せたのに、ワタシは罠を仕掛けることしかできなくて」
「シフレ……」
「暗いことを言ってごめんなさいニャ。ワタシはもう大丈夫ニャ。前の旦那さんとお別れできたし、これからはリュカさんのオトモアイルーとして頑張るニャ」

 そっと近づいたモーナコがシフレを抱きしめる。ワカがエイドを励ますように、モーナコもシフレを励ましてあげたいと思ったからだ。じっとうずくまっていたせいか、シフレの体は冷たい。モーナコの体温が伝わり、シフレが幸せそうに笑う。

「モーナコ、あったかいニャ」
「…………。」

 モーナコは、ワカの義兄が教え子の捜索依頼をリククワに出した日のことを思い出していた。リュカたちは一年前に捜索依頼を受けたことがあると話していた。捜索対象だったハンターは事切れていたが討伐対象だったモンスターも息絶えていたことや、ハンターが連れていたオトモアイルーは行方不明になっていたことも。

(あの時行方不明になったオトモアイルーは、このシフレだったんですニャ。リュカさんたちはそれを知っていてシフレを引き入れたに違いないですニャ)

 捜索依頼を受けたのであれば、対象になる人物の外見を確認したはずだ。オトモアイルーも同様で、垂れた耳と丸い尻尾という外見の特徴をリククワのハンターは忘れていなかった。彼らにとっても辛い記憶なのだから。

(リュカさんがシフレにルームサービスをお願いしたのも、前の旦那さんのような思いをさせたくなかったからですニャ)

 依頼に参加できる人数の都合もあるが、一番の理由はシフレの目の前で倒れる姿を見せたくないからだろうとモーナコは考える。リュカは口が悪く粗暴な行動が目立つが、家族思いの優しい心を持っている男なのだ。

「シフレ、せっかくだから少し採取をしていきましょうニャ。エールたちがエリア6でいにしえの龍骨を探していますニャ」
「わかったニャ、……?」

 シフレが返事をした瞬間、モンスターの咆哮がエリア6側から聞こえてきた。こんなところまで声が聞こえるのは大型モンスターだけだ。急いで二人はエリア6へ向かった。



「遅いニャ、モーナコ! こいつが採取の邪魔をしてきたニャ!」

 エールが巨ネコ杖を構えて叫ぶ。隣ではユキモリがナルガSネコ手裏剣を投げつけているが巨大な尻尾に弾き返されている。
 現れたのはガララアジャラ亜種。モーナコはすぐにとぐろを巻いているガララアジャラ亜種の右後ろ足に注目する。三本ある指のうち、外側の指が欠損しているのを確認すると、顔を上げた。視線が交錯したガララアジャラ亜種の目つきが嬉しそうに細められた気がする。

「【イララ】ですニャ。厄介な相手ですニャ」
「イララ? あいつはガララアジャラニャ」
「イララはワカ旦那さんが付けた名前ですニャ。ハンターにちょっかいを出しては地面に潜って逃げるモンスターニャ」
「成る程、納得ニャ。道理で僕の攻撃をいなしてばかりだと思ったニャ」


 まるで玉を投げ合う遊びをするように、ユキモリの投げる手裏剣を堅い尻尾で弾き返すガララアジャラ亜種は、モーナコとシフレという新たな遊び相手が増えたことに喜んでいるのか背の撥水甲をジャラジャラと鳴らしている。だが開いた口から覗く牙は鋭く、いつでも喰らう準備はできているようだ。
 【イララ】と名付けられたこのガララアジャラ亜種は、以前リュカたちが依頼を受けて討伐しようとした個体だ。あの時も変則的な攻撃でリククワのハンターを翻弄し、最終的に辺境へ逃げられて撃退扱いとなった。
 あれから度々氷海に現れては気ままに過ごしているようで、リュカたちの顔を記憶したのか時折調査の最中に乱入してはひとしきり戯れ、最終的に嘲笑うように鳴いて姿を消す。賢さに優れる種とはいえ、ここまで人間と接触することを楽しむ個体がいただろうかと書士隊は深い関心を持っていた。

「おちょくってるようなあの笑顔、ぶん殴りたいニャ」
「最大金冠級の大きさだから、届きそうにありませんニャ。討伐しようとすると逃げてしまうし、イララの気が済むまで遊び相手をしなくちゃいけませんニャ。逃げようとしても追いかけて来ますニャ」
「追いかけてくるなんて、しつこい男は女に嫌われるニャ!」
「エール、イララは雌らしいですニャ」
「女だって同じことニャ!」
「モーナコ殿とエール殿、まるで漫才のようニャ。阿吽の呼吸の如く息がぴったりニャ」
「旦那さん同士も仲が良いし、一緒に狩りに出た回数も多いらしいニャ」

 モーナコとエールのやりとりにユキモリは感慨深そうに頷いている。今頃拠点では主たちも仲良く寄り添っているのだろうかとシフレも考えており、とてもではないが大型モンスターと対峙している空気ではなかった。

「“ベルナの英雄”の力をとくと見るニャー!」

 エールがイララの長い体を足場にして頭部めがけ飛び上がる。しかしイララは姿勢を低くしてエールの攻撃を避けると直後に頭を持ち上げてエールの小さな体を自身の背に乗せる。坂から転げ落ちるように滑っていくエールは抵抗するべく武器を振るうが、撥水甲の厚い殻に阻まれた。

「ウニャーッ!?」

 滑り台の終点は氷の床。バランスを崩したまま放り出されたエールに着地の態勢を整える余裕は無く、地べたに転がる無様な姿を見せてしまうのかと目をぎゅっと瞑ったが、何かに受け止められて地面との衝突を免れた。

「……ニャ?」
「おや、エールじゃないか」
「ニャッ!? ハ、ハ……【ハビエル】!!」

 エールの体を受け止めていたのはハンターの大きな手だった。両手で抱えられたエールがハンターの顔を見るなり鍵尻尾を一気に膨らませる。
 年は四十歳ほどの男性。若草色の髪を後頭部で結い、頬には赤い爪のフェイスペイントを施している。淡い水色と棘部分の朱色の対比が鮮やかな【ラギアシリーズ】に身を包む体躯はリュカ以上に縦にも横にもがっちりとしているがその表情はとても穏やかで、エールを抱いたままグリーンの瞳が周囲の確認を行った。

「モーナコもいるね。他のアイルーも仲間かい?」
「ハビエルさん、お久しぶりですニャ」
「おれもいる」

 ハビエルと呼ばれたハンターの隣に、対照的な体格の男性ハンターが立っていた。まだ二十歳にも満たない、少年のような小柄な体はカゲよりも細い。
 小麦色の肌と真っ白な髪の毛、長い白のまつ毛が覆う瞳は氷のように透き通った青。防具は黒を基調とした、コートの縁を紫色が彩る【ケチャZシリーズ】だ。モーナコはこの二人と知り合いのようでトコトコと駆け寄るが、その背後でユキモリが首を傾げた。

「【トラフズク】さんも、どうしてここに?」
「トラ君の【封龍剣】を強化するのに必要な【いにしえの巨龍骨】を探しにね。ベースキャンプで見かけたイカダは何だろうと思ったけど、モンニャン隊のものだったとは」
「あいつ、じゃま」
「野良モンスターと遭遇することも想定外だね。ここにもいにしえの巨龍骨があるはずだから、ちょっと退いてもらうよ」

 ハビエルが抜いた武器は主に鉱石を素材としたスラッシュアックス【ディズオブアーム】。トラフズクも封龍剣【超絶一門】を構えるが、細身の体に合わせて軽量化された双剣は刃が薄く、また逆手に持っているため刃が地面に向けられている。主の仲間に双剣使いがいるユキモリが、その構えに首をかしげた。

「独特な持ち方ニャ」
「トラフズクさんはスピードで攻めるんですニャ。素早く何度も斬りつけることでダメージを与えていきますニャ」
「僕の旦那と似ているニャ。気が合いそうかはさておき」
「ボクらも戦いますニャ! ユキモリ、行きましょうニャ」
「御意ニャ」

 各々が武器を構えイララを取り囲む。その時、ハビエルの隣に立っていたエールがグルグルと喉を鳴らし、突然身を仰け反らした直後に低く身構えた。地面に突き立てられた二本の前足にはいつの間にか鋭い爪が付いたグローブが装着されている。目には炎のような闘志が灯っているようにすら見えた。

「あれは【ビースト変化の技】ニャ。獣を宿すが如く野生的になる特殊な技ニャ」
「ユキモリは物知りですニャ、ボクにはわからなかったですニャ」
「狩人が狩技を会得したのと同様、僕らも新たな術を開発しているのニャ」
「ハビエルの前で情けない姿を見せてしまったニャ……乙女の怒り、思い知るニャ!」

 突進をするように飛び出し、鋭い爪を振り回す。イララも尻尾を振るって反撃するが後方に宙返りをして回避した。その背後ではトラフズクが封龍剣で舞うように後ろ足めがけ攻撃をしており、二人の連続攻撃にイララの怒りが爆発したのか撥水甲を鳴らすと口を開いて騒音の如く咆哮を発した。
 ビリビリと大気を震わせて防音の術を習得しているモーナコ以外の動きを封じると、即座に地面に潜っていく。どこからか浮上して攻撃を仕掛けてくるのかと周囲を警戒したが、現れる気配は無い。どうやら遊ぶのはやめにしたようだ。武器を背負い、張り詰めていた緊張感を解く。

「おっさんの出番無しか。いい攻撃だったよ、トラ君。エールも」
「ニャ、ニャ~。照れるニャ~」
「ハビエル、このホネ」
「ん、これがいにしえの巨龍骨か。必要数は手に入ったからおっさんたちは帰るけど、君たちはどうするんだい?」

 女を捨てた戦士と豪語するいつもの姿はどこへやら、ハビエルの近くでもじもじしているエールをよそにハビエルは唯一の知り合いであるモーナコに問いかける。モーナコはシフレを見やると、彼女は満足そうに笑った。もう心残りは無いらしい。

「ボクらも目的は果たしましたニャ。後はリククワに帰りますニャ」
「そうか。ベースキャンプで少し暖まってから帰るつもりなんだけど、少し休んでいくかい?」
「モーナコ、帰りにもまた寒風を浴びるからボクらも暖まるべきニャ」
「わかりましたニャ。エールのためにもちょっとだけ休みましょうニャ」

 明らかにハビエルに好意を向けているエールを気遣って同調したモーナコの答えに、シフレとユキモリもベースキャンプへ向かうことにした。



 火を起こして小型の鍋に入れた水を沸騰させる。シュンシュンと音を立てたのを聞くと、ハビエルは二つの木製コップに湯を注いだ。コップには茶色い粉が入れられており、湯に溶けると香ばしい匂いが辺りを包み込む。そこへミルクとハチミツ、更に冷ますためか氷も加えた。
 そのコップをトラフズクに手渡していると、興味津々に眺めるオトモアイルーたちに気がついたハビエルは自分用に淹れたコップの中を見せた。ミルクを入れたことで淡い茶色になっている。

「【七色タンポポ】の根を焙煎したコーヒーの粉を入れたんだ。ミルクを入れるとまろやかでおいしいんだよ。みんなにはミルクでいいかな。舌を火傷しないよう、少しだけ温めるから」
「ありがとうニャ、初対面のワタシたちの分まで」
「ハビエルがボクに飲み物を……ハニャァン」
「モーナコ殿、エール殿のあの豹変ぶりは何ニャ。まるでマタタビ爆弾を受けたみたいニャ」
「エールはハビエルさんがお気に入りなんですニャ」

 コロコロと表情を変えるエールに面食らったユキモリだが、モーナコの答えにひとまず納得しておくことにする。そして、先ほどからずっと気になっていたことを指摘した。

「ところで、トラフズク殿は女性なのニャ?」
「いきなりどうしたニャ。トラ坊は今年で二十歳になるオトコニャ」
「それなら、どうして女性用の装備を着ているニャ。女性の格好をするのが好きニャ?」
「……ニャ?」

 オトモアイルーたちの視線が一斉にトラフズクに向けられる。小タルを椅子代わりに腰掛けるトラフズクの装備をよく見ると、コートの下の衣服は太股が露出しているスカートだった。もちろんその下にはショートパンツをはいているが。
 ユキモリに質問をぶつけられ、ハビエルが困ったように笑った。

「見ての通り、トラ君は小柄だろう? 男性用のサイズが最小のでも合わなくて。それでやむなく女性用のデザインを着ているんだ」
「うごきやすいけど」
「トラ坊は気にしていないみたいニャ」
「そうなんだよね……そうだモーナコ、良かったらリククワの人たちにこのコーヒーを渡してもらえないかな。もし気に入ったら商人に仕入れるよう頼めばいい」
「おいしいの、おすそわけ」
「ありがたくいただきますニャ」

 蓋をしっかりと閉めた瓶を受け取り、ポーチに入れる。ハビエルたちはそろそろ出発するようで、トラフズクが焚火の消火をしていた。

「そうだ、ミサさんのキャラバンにも届けようかな。カフェインが含まれていないし、体を温める効能もあるから妊婦さんにもおすすめなんだ」
「ワカ坊のお姉さんにも気を遣うハビエル、なんて優しいのニャ……」
「エール、目がハートニャ」
「見ていて飽きないニャ。見事な顔芸ニャ」
「みんな、世話になったね。それじゃ」
「こちらこそ、ごちそうさまでしたニャ」

 二人と別れたオトモアイルーたちはイカダに乗り込む。潮の流れが良くなり航海が順風になったところで、ユキモリがポーチからあるものを取り出した。それに気がついたエールが真っ先に反応する。

「何ニャ? それは」
「さっきの水蛇竜の尻尾からぶんどってきたニャ」

 それはイララの撥水甲のかけらだった。手裏剣の応酬の時に掠め取ったらしい。装備の素材にするには小さいが、主への手土産にするつもりなのだろう。

「みんな、本当に今日はありがとうニャ」
「シフレ殿が満足したのなら、お安い御用ニャ」
「困ってる仲間を助けるのもオトモアイルーの勤めニャ」
「ユキモリ、エール……」

 自分をここまで連れ出してくれたモーナコたち、そして相談を聞いてくれた上にリククワの住人に見つからないよう外へ出る手はずを考えてくれたアイとハリーヤにも感謝しながら、シフレは遠ざかる山脈を眺める。心がかき乱されることは無かった。



 リククワに戻ると、風邪をひいて寝込んでいるワカにモーナコが驚き、エールはエイドに看病を手伝うよう指示され、ユキモリはカゲに手土産を渡し礼を述べられるも無断で勝手に動き回らないようにと諭された。
 シフレはアイとハリーヤに事の顛末を話し、感謝の言葉を述べるといつか必ずここへ戻ってくると信じているリュカの部屋の掃除を始めたという。

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第22話 一年越しの永別 前編

銀白色の奇士[3]

 リククワから少し歩いた先の海岸から船に乗り、氷海のベースキャンプに着くまでの所要時間はおよそ十分強。リッシュが操作する船しか見かけることの無い冷たい海の上を、意外な乗り物が渡っていた。
 小タルを繋げて造ったイカダは四人のアイルーを乗せ、風に身を委ねて氷海を目指していた。潮風を浴びながら、シフレはイカダに乗り合わせた同胞に尋ねる。

「みんな、旦那さんに内緒で来てしまったけど本当に大丈夫ニャ? 心配するんじゃないニャ?」
「エイドは放っておいても平気ニャ。寧ろ今頃ワカ坊とイチャイチャしているから、ボクのことは忘れてるニャ」
「ボクも同じですニャ。ワカ旦那さんとエイドさんと二人きりにしてあげたいから平気ですニャ」
「そうなのニャ……ありがとうニャ」

 申し訳なさそうに頭を下げるシフレを見て『そんなにかしこまる必要は無いニャ』とエールが彼女の肩を軽く叩く。そして後ろに鎮座するアイルーにも声をかけた。リククワの住人ではない、突然同行を申し出た外部のアイルーだ。

「キミはどうなのニャ。あの糸目のギルドナイトが旦那さんじゃないニャ?」
「聡明な旦那なら僕の行動も理解してくれるはずニャ」

 そのアイルーは【ユキモリ】と名乗った。漆黒の胴着、ナルガSネコ装備メイルに袖を通した腕は雪のように真っ白で、細められている目は糸目のギルドナイトことカゲに瓜二つだ。オトモアイルーが主に似た顔つきに成長すると聞いたことはあるが、本当によく似ているとモーナコは思う。

「君たちが目的を穏便に果たせるよう同行することを決意したニャ。僕がいるからには安心してほしいニャ。峯山丸に乗ったつもりでいてほしいニャ」
「そういうことを言うヤツは、実際のところダメダメなのが定石ニャ」
「そんな不評をひっくり返すほどの実力を持つのが僕なのニャ」

 冷ややかな視線でエールが言い放ったがユキモリは胸を張っており、まったく気にしていないようだ。初対面のエールは知らなくて当然だが、このふてぶてしさもカゲに似ているとモーナコは心の中で類似点を追加した。
 一層冷たい風を感じたシフレが顔を向けると遠くに見えていた氷海の山々が間近に迫っていて、穏やかだったはずの心がざわめきだした。



 ベースキャンプに到着したが、依頼を受けたハンターが訪れることを想定して、船舶するであろう箇所を避けた場所にイカダを停める。
 見上げれば氷の山が構えており、リュカのオトモアイルーとなってからはリククワの外に出ることすら稀だったシフレの目には、とても懐かしい光景に映った。
 何も装備しないのはまずいだろうとモーナコからレックスSネコシリーズを借りて身につけたシフレの立ち姿はピンとしている。彼女もかつてはハンターと共にモンスターと戦ったオトモアイルーだったのだと誰しもが納得した。

「氷海……本当に、懐かしいニャ」

 白い息と共に呟いた声は、どこか悲しそうだった。シフレがここを訪れたい目的を唯一知っているモーナコがシフレの手をとり、ぎゅっと握る。

「シフレ、行きましょうニャ。ずっとずっと心の底で願っていたことを叶えるのは、今ですニャ」
「……ニャ」

 小さく頷き、先にエリア1へ向かったエールとユキモリを追いかける。大型モンスターの気配は無い。シフレはゆっくりと歩を進める。行きたいような、行きたくないような、そんな気持ちを抱きながら向かった先はエリア5だった。
 エリア5は天井から何本ものつららが生えている洞窟で、氷の壁と岩の壁が半々に分かれているのが特徴だ。

「…………。」

 三人はシフレが無言でゆっくり歩くのを見守る。シフレは薄暗い壁際へ歩いていき、地面に埋もれた何本もの巨大な骨が剥き出しになっている場所で止まった。
 そこはシフレにとって特別な場所だった。屈むとゆっくりと頭を垂れ、うずくまるような姿勢になる。厳かな儀式のような動作だった。

「旦那さん……」

 溜め込んでいた思いを吐き出すような声が地面へ吸い込まれていく。その言葉を聞いたエールとユキモリは、不思議そうに顔を見合わせた。二人はシフレの過去を知らないからだ。
 そんな二人にモーナコが小声でシフレ一人にさせることを提案した。ここには我関せずと動き回るオルタロスが数体徘徊しているだけだ。なにより、シフレだけにしてやることが重要だった。

(シフレ、乗り越えてくださいニャ。“元”旦那さんとの本当のお別れを)

 考えたくはないが、自分もいつか迎えてしまうかもしれない『その時』を経験してしまった同胞の心の傷が少しでも癒えるよう願い、モーナコは目線を冷気が渦巻くエリア6へ向けた。採取でもしながら二人にシフレの過去を打ち明けようと思いながら。



 シフレはハンターの良き相棒となるオトモアイルーを育てる施設に生まれた。垂れた耳と先まで丸い太めの尻尾が特徴の、大人しいが真面目なアイルーだった彼女はオトモアイルーの極意を学び、やがて一人の女性ハンターに雇用される。後ろに結われた明るめの茶髪と青色の瞳、頬に施された赤いフェイスペイントが印象的だった。

「はじめまして、よろしくね」
「旦那さん、ワタシに名前をつけてほしいニャ」
「名前? うーん、そうだなあ……【シフレ】。シフレってどうかな」
「シフレ。嬉しいニャ、ワタシだけの名前ニャ」
「これから一緒に頑張ろうね、シフレ」

 女性ハンターはハンターになりたての新人だった。それはオトモアイルーになったばかりのシフレも同様で、二人は同じ新人、女性ということもあってすぐに打ち解け、まるで親友のように共に行動した。
 やがてハンターは徐々に腕を上げて上位試験にも合格し見事上位ハンターになった。その夜はシフレと共に豪勢な食事をとり祝杯をあげたという。

 だが、別れは突然訪れた。

 氷海でザボアザギルの討伐依頼に挑んだある日。ザボアザギルを瀕死まで追い込んだが、隙を突かれて凍結ブレスに腹部を貫かれた。態勢を立て直そうとエリア5へ逃げ延びたが、ハンターは力尽き岩壁の傍で崩れ落ちた。
 ホットドリンクを飲んでいるにも関わらず全身を冷気で包まれる感覚に死を覚悟したハンターだったが、涙を目いっぱいにためこんで心配しているシフレが視界に入ると最期の力を振り絞って口を開く。

「シフレ、君を解雇する。そして今すぐここから逃げて。ザボアザギルを仕留めたかはわからない。もし生きていたら次はシフレが狙われちゃう。いい? 振り向いちゃ駄目よ。途中でこっちを見たら許さないんだから」

 傷だらけの顔でそう笑い、『行きなさい』と強い意志を込めた言葉を紡ぐ。ハンターの発言の真意を感じ取ったシフレは全身をわなわなと震わせたが、こぼれる涙を断ち切るように目を強く瞑ると背を向けて駆けだした。

 約束通り、シフレは一度も振り向かずに氷海を後にした。

 ハンターがどうなったのかはわからない。だが、この傷では助からないと自覚したハンターは果てる前に自分を解雇したのだと理解した。あれが彼女との今生の別れだったのだ。
 主の死を見届けるべきだったのでは、主の代わりにザボアザギルを討伐するべきだったのでは。シフレはずっと自分の行動が正しかったのか悩み続けていた。どこに答えがあるのかもわからず、宛もなく各地のネコの巣を転々としていた。
 それから数ヶ月後、シフレは地底洞窟で一人の男性ハンターと出会った。イビルジョーと対峙していたらしい彼は罠を欲していたので、山菜爺さんが小金魚と携帯シビレ罠が交換できることを教えた。主が教えてくれたことの一つだった。

「ありがとう、助かるよ」

 その笑顔が主と重なったのは、同じガララシリーズを身につけた狩猟笛のハンターだったからだろう。シフレは、オトモアイルーとして生きる道しか知らない。自分をスカウトしてもらえないかと依頼を終えたハンターを追ったのだが、彼の隣にはメラルーの毛並みをしたオトモアイルーがいたため諦めざるを得なかった。



 更に数ヶ月の時が流れ、気が付いたら再び氷海を訪れていた。だが主と別れを告げたエリア5には足を踏み入れることができなかった。既に遺体は回収されているだろうが、最期に聞いた言葉が耳から離れない。

(途中でこっちを見たら許さないんだから)

 日常で見せていた、いたずらっぽい笑みで彼女はそう言った。血と氷にまみれた姿だったが、それでも彼女は笑ったのだ。エリア5に行くことはそんな彼女との最期の約束を破ってしまう気がして、シフレはネコの巣で静かに暮らすことを自らに強いた。
 だがどうにも落ち着かない。明日にはここを発とう。そう思っていた昼下がり、モンスターの咆哮が聞こえた。ハンターがモンスターの狩猟に挑んでいるのだろう。耳を澄ますと風が人間の言葉を運んでくる。慌てているような、男女の必死な声だった。

「何してやがる、起きろ! おいっ!」
「急いで! 閃光玉の効果も長くはもたないわ、早くベースキャンプに連れて行って!」
「わかってるけどよお! こいつ、裂傷だけのはずなのに気絶しちまって……!」

 どうやらハンターの誰かが負傷したようだ。今の自分は野良アイルー、ハンターの狩猟に力を貸すことなど無意味なのに、何故かこの時だけは体が自然と動いていた。
 隣接するエリア1に向かうと、金色の鱗に覆われたモンスターが閃光玉に視界を焼かれた痛みで暴れまわっている。そこから少し離れたところで、負傷したハンターを担いで撤退しようとするハンターの姿が見えた。
 負傷したハンターは意識を失っており、左頬を血がどろどろと伝っていて見るからに痛々しい。その顔と出で立ちに見覚えがあった。地底洞窟で会った、あの狩猟笛のハンターだ。倒れている主の姿が脳裏を掠め、シフレは心臓がドクリと強く脈打つのを感じた。

(このままでは、みんなモンスターにやられてしまうニャ!)

 金色の鱗のモンスターが視界を取り戻したようで、ハンターたちに視線を向けている。シフレは一気に距離を詰めるとカブレラネコソードをブーメランのように放り投げた。大型モンスターと対峙したのは久しぶりだったが、カブレラネコソードはモンスターの背に命中した。
 モンスターの意識がこちらへ向き、その隙に別のハンターがこやし玉をぶつけたことでモンスターを追い払うことに成功する。これで安全にハンターをベースキャンプへ運べるはずだ。
 どうにかあのハンターを助けてほしい。自分には主を救うことができなかった。だから、せめてあの人だけは。そう願ってシフレはネコの巣へ戻ろうとしたが、そうはさせまいと一人のハンターがシフレの手を掴んだ。

「待ちなさいよ。功労者が何も言わずに立ち去るなんて、アタシは嫌だわ。きちんとお礼がしたいもの」

 それから彼らの拠点へ案内され、負傷したハンターの看病をした。唯一オトモアイルーと契約していないハンターと絆を結ぶことでシフレは拠点【リククワ】の一員となり、日々を過ごしている。
 氷海で主を失い、新たな主と出会う。シフレは、この一年に起きた邂逅に不思議な縁を感じた。

「旦那さん……ワタシ、戻ってきたニャ。約束、破ってごめんなさいニャ。でも、本当はずっとずっとここに戻りたいと思っていたニャ」

 今までのことを思い出しながら、一年前にここで倒れていた主の幻を覆い被さるような姿勢でシフレは独白を続ける。主のことを忘れなかった日は無い。だが、ある出来事がきっかけでこのままでは良くないと思うようになった。

「ディーンさんがいなくなって、みんな悲しんだニャ。だけど、しっかりとお別れをして、支え合って、立ち上がったニャ。その時に気付いたニャ。ワタシ……旦那さんと、ちゃんとお別れできていなかったニャ。約束は守ったけど、ワタシの中で後悔が残っていたニャ。だから旦那さん、ここでワタシは旦那さんとお別れをするニャ。そして今の旦那さんについて行くニャ」

 さよならニャ、旦那さん。大好きニャ。

 そう心の中で呟いた瞬間、シフレは心の中に大きな穴が開いた感覚がした。前の主は死んだ、どこを捜したって存在しない。これが『死』なのだと、シフレはようやく大切な人の死を受け入れた。
 ディーンを深く愛していたユゥラが感じた痛みは、これ以上に悲しいものだったのだろう。目の前で死を見たワカのそれも、これ以上に重いものだったのだろう。憔悴していた二人の顔がシフレにここを訪れる覚悟を決めさせた。
 もしかしたら、などと現実から目を逸らしていた自分は、ひたすら重く圧し掛かるこの悲しみから逃げていただけなのだ。

「ニャ……ニャ、ニャウウゥ……ニャアアアアアッ!」

 主と離れてから久しく流していない涙が堰を切ったかのように溢れだし、シフレは心を締め付ける痛みにひたすら声をあげる。しばらくの間、悲しみの咆哮は洞窟内に響いていた。

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